視線

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年とって体のあちこちに支障がでてくるのは仕方がない。外目からはわかりにくいが目が見えにくくなることもそうである。道で人とすれちがいながらよく知った人であるのに気づかないまま、ふとふり返ってみるようなこともあったりする。向こうからサインが送られているのにそれを見落としてしまっては申しわけない。

ふだんは目を意識することはあまりないが、疲れたり体の不調なときにかぎって目がはれぼったくなったり、しょぼしょぼと見えかたがぼやけたりする。どこか体に変調があったりすると、部分的にもっとも弱いデリケートなところに変化がでる。もちろん目そのものがへたばってしまうこともある。

そういえばときにギザギザしたものが網膜に映っていたり、蚊が2、3匹飛んで見えることもあるし、3か4の度数の老眼鏡をいつも手放すことができない。もうひとりの人は大震災のときに疲労が重積し眼底出血したこともあって、片ほうの視力がほとんどないという。それでも慣れてしまうとあまり気にするふうでもない。

たしかに視力が落ちたりすることがあってもまだまだふだんの生活にさほど支障があるわけでない。体の機能のおとろえは目にかぎったことではないが、でもよく目力とかいうこともあるから、いまいちインパクトに欠けることはまちがいない。見ているようで見ていないということもあったりする。

そんなこともあって目線というフレーズがなんとなく目にとまったことであって、おなじ言いかえでは視線というのもある。多少ニュアンスがことなって、それだと見るがわの意志が感じられるようでもある。人との会話や出会いなどで時計に目をやったり、胸の名札で名前を確認するようすによく見られることである。

目線でいうとカメラ目線とか相手の目線にあわせるとかであるように見る人の位置、また目さきの方向をさすようでもある。一方視線となると目線のさきの対象に焦点があてられて、それを受けたり感じられたりすることであり、その度合いから強い視線とか熱い視線といわれたりする。それからするとまさに目は口ほどどころではない。

人はともかく人前に立ったりするとき、多くの目がいっせいにこちらを注視することであり、その威圧の強さに圧倒される。だれしも人に見られることの恥じらいがあり、それも数の多さによって羞恥心が倍増するようでもある。もちろん人に見られることを無上の喜びとする人もいるにはいる。

ともあれ、子どものころのあのピュアでキラキラとした目とはうってかわって、いまやどう見てもどんよりとうつろで力のない目になっている。でも見た目はどうであれ、すくなくとも目線だけはわきまえていたいし、視線のさきは見さだめてぶれることなく、真実を見る目だけはたしかでありたい。

どこからもモナリザ見てる勘ちがい

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