互酬性
日ごと新聞にのる川柳をたのしみにしている。なかにはすぐに意味がよみとれなくて頭をひねることもあり、なるほどとしばらくしてから納得するような句もある。もとよりかぎられた字数で凝縮されたことばであるし、あまりにストレートであるよりそれとなく遠まわしのほうが、より印象づけられるということからだろう。
たとえば昨日だったか「長男と夫思えばいいのでは」という句があった。どこか文章になっていないようでひとしきりわけがわからない。これもきっと「夫を長男と思えばいい」ということをただ夫と長男を入れかえているだけにすぎないようだ。あるいは「長男と」のところで句読点でもついていればすぐにわかることであった。ちなみに「犬と思え」というのもよくきく。
時節がら「憂鬱なバレンタインがやってくる」という句もあった。よみ手が男性のようだからなんとなく想像がつく。たぶん友人とか同僚がたくさんの女性からチョコレートをもらうというのに、それにひきかえわが身はとなげいているようにもうけとれる。なにがしか男として差がつくのをきらうようでもある。
いやぎゃくにあまりのチョコレート攻勢にへきえきしてのことかもしれない。とてもひとりでは食べきれないし、お返しのことを考えるとあたまがいたくなるとか。一般人にはほど遠いことであっても、すくなくとももらいっぱなしでいいはずはない。なににしてもよいことずくめというのはありえない。
いっそのことこうも面倒なモノのやり取りなどないほうがいいのかもしれない。年賀状やお歳暮のしきたりとかもあるし、いつだって虚礼廃止の声がかかったりもする。でもこうした習慣は人間社会独特のことであるらしく、たがいにものを取り交わしたりするのはごく自然な行為でもあるのだろう。
たしかに人にモノを贈ったりもらったりするバックにはお返しの意味あいがあったり、さらにはそこになんらかのみかえりを期待することがすくなからずある。もちろん純粋でなんの下ごころがあるはずもないにしても、もらったほうにとっては負いめや借りの気持ちがはたらくのだろう。それでまたやり取りのくり返しがつづくのだろうか。
ときにはあからさまになんらかのみかえりを要求することもあるのだろう。たとえば選挙などになるとそうしたことがあらわになるようでもある。ではあってもモノを分けあい、ともに助けあうという双方向のいわゆる互酬性によって社会が成りたっているということであるから、こうした慣行がなくなることはないのだろう。
どうやら川柳のことから横道にそれてしまったようである。ユーモアというかそこにおもしろみがあって、なおかつ詰めこまれたことばの工夫がこらされている。それにテーマが季節や世のなかのうごきを反映していることであり、それにたまたまチョコをひとつふたついただいたこともあったからにすぎない。
ウオークに米10キロを背負わされ

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