悲嘆
午前中に結婚式に参列して、幸せのおよばれをもらって帰ってきた。家でくつろいでいると、実家に寄っている家内から電話があった。「昼ご飯どうしてるの」という。
ところがそのあと、「あのねー」と続く。「○○ちゃんが、××したの。それで今取りこんでいる」「病院に行ってるの?」と聞くと、「いや、もう冷たい」
青天のへきれきとはこのことだろうか。早朝に散歩に出かけて、それが最後になった。まだ30代、まさに「朝に紅顔ありて夕に白骨となれりが」そのままだ。
家にじっとしておれないので、畑仕事に出ることにした。自転車に野菜を載せて帰る道、式場の準備に出かける○○ちゃんの両親にばったり。どう声をかけていいのか分からない。
あまりにも突然のことで、茫然自失、悲嘆のどん底にあるはずだ。ほんとなら、せめてともに寄りそって、慰めのことばでもかけられたらいいのだけど。
それがのんきに何もなかったかのように、自転車で出歩いているのだ。ずいぶんと薄情な人間と思われただろう。確かにそうなのかもしれない。
急なことではあっても、まるであらかじめ用意されているかのように、みごとにおぜん立てができている。周囲にあまり知らせていないはずなのに、通夜にはたくさんの人が弔問にやってきた。
そのあとは身内だけではあるけど、ビールやぜいたくなほどのお寿司のふるまいもある。お坊さんのお経を別にすれば、親戚同士の久しぶりの再会でもあり、決してしめった雰囲気でもない。
次の日のお葬式もよどみなくたんたんと進む。さすがに出棺のときは感きわまる。お昼にはまたぜいたくな食事の用意ができている。そして骨拾いと続く。
まだ若いから骨が硬いのだそうだ。たたきながら骨壺に入れていく。家内は、あまりにも優しすぎたからだと言う。デイサービスを立ちあげて、もうすぐ3年目を迎えるという矢先だった。
あまりにもあっけない。何が何だか分からないとも。ただ葬りのあわただしさに紛らわされていたのだろう。悲嘆はやわらがない。でも、同じような格言に「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」ともある。
何がなくても骨壺だけで用が足り
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